インターネットで知る景色もある

ネットで真実、という揶揄も今や廃れたが、ネットが無ければ知らなかったことがある。

以前少し記したが、私の家庭は、どうにも環境が良くはなかったらしい。

父母による怒鳴り合いの喧嘩、激昂の末割れる窓ガラス、穴の空いた机、壊された洗濯機、飛び交う小物。

或いはヒステリックに死んでしまえと叫ばれたり、機嫌が悪いから近寄るなと一方的に拒絶されたり、俺の子で良かったなじゃなきゃ殴ってると恫喝されたり。

そういう事は一般的な家庭にはよくある事だと思っていたのだが、どうもそうではないらしい、と。

それを知るきっかけは、インターネットだった。

 

画面の向こうの見知らぬ人たちは、あなたは親のダブルバインドに支配されてないか?と心配してくれた。

画面の向こうの見知らぬ人たちは、様々な人間の行動に対し毒親という烙印を押し、虐待だと憤っていた。

それで私は知ったのだ。

世間の親、こういうことしないらしいぞ、と。

 

友人はいた。友人宅に遊びに行きもした。

だがそこで見えるのは表面だけだし、家庭の話は上澄みだけ話すものだと思っていた。

四六時中あんな穏やかな家庭が有るなんて、夢にも思わなかったのだ。

ネットが無ければ、多分一生知らなかったと思う。

 

まぁ、それを知れたから、どうと言うこともないのだが、知っていることは一つでも多い方がいい。

インターネットで赤裸々に語られる様々な話、それが見せてくれる景色が、私は好きだ。

レッテルを貼るな、主語を小さくしろ

いやマジでこれ。

私は小さい頃からレッテルを貼られるのが苦手だった。

「男の子はこう」「女の子はこう」「こういうおうちの子はこう」「本を読む子はこう」「お勉強できる子はこう」etcetc...

私は私でしかないので、レッテルを貼られるのはたいへん困った。

うるせーーーーーー!知らねぇーーーーーー!!!!!!と今なら言えるが、子供は素直だ。

周りの大人を全て信じ、言うことを聞いては不整合に混乱してゲーゲー吐くハメになる。

とはいえそれは、子供にだけ起こる人権侵害だと思っていた。大人になれば、自立すれば、私は何にも侵されまいと。

ところがどっこい、世間はレッテルまみれだった。

クソデカ主語で振り回される巨大なレッテルの数々は、私の自意識をかすめて巻き取っていく。

社会人は、オタクは、毒親育ちは、育ちのいい子は、文系は、理系は、○○人は、男は、女は……。

そんな主語で語られてしまうと「いや私はその属性ではあるけどそうではないし……」という不整合がおこり、脳への強い負荷を実感する。

あなたはあなた、私は私。

あなたが出会った人間は「〜だからクソ」「〜だから最高」だったのではなく「(特定個人は私にとって)クソor最高」でしかない。

十人十色、千差万別。類型化することはもしかしたら出来るかも知れないが、どんなに同一の類型だとしても、そこに人が二人いればそれは違う存在だ。違う属性を持っているのだ。

まとめてレッテルを貼って楽をするのは勘弁してほしい、そう思うのである。

「クソデカ主語で語ってレッテル貼りするやつは思考停止しすぎ」

とも、限らないのだし。

女王の帰還

思い……出したっ……。

前世で許嫁がいたわけでもなければ叶わぬ恋をした妹がいたわけでもないが、そんな言葉が頭によぎった。

ゴジラを見たのだ。

 

ゴジラといえば、近年ではシンゴジラが巷を賑わした。うろ…ぶち……あ……はい……何かのタイミングで……見るつもりでは……いますが……いえ……一旦おいておきましょう……。

シンゴジラ、とてもいい映画だった。無人在来線爆弾にテンションがぶち上がってウッキウキで劇場を後にした者は少なくないだろう。

そして今、再び巷を賑わすゴジラ映画が現れた。

ゴジラ キングオブモンスターズ。

我らの王が帰ってきたのだ。

 

これは年代の話になる。あるいは生育環境の話にもなろう。

VSシリーズを三つ子の魂に刻まれた者達、という層がある。かく言う私もその層だ。その層だったと、思い出させられた。

物心つくかつかないか、それくらいの年頃に見た作品は、原体験として人の心に根付きながら、時として記憶の彼方に埋もれることがある。

私にとってVSシリーズは、原体験として心の中に根付きながら、一ペタバイトはあるという記憶容量の中に完全に埋もれてしまっていた作品であった。

ゴジラのテーマを歌いながら狂ったように踊っていた園児であった、と、父母に聞かされたのはいつだったか。

キングオブモンスターズを見た私は、ふとそれを思い出した。

そして我らが女王の、あのシーンで、私は唐突にインファント語を思い出した。

(インファント語、という単語さえ忘れていたのに!)

 

モスラヤ モスラ ドゥンガンカサクヤン インドゥム

 

頭の中に浮かんだ歌詞。途端に目頭が熱くなった。どうして私は忘れていたんだ。この美しい怪獣を、こんなにも崇敬していた事を。

 

イアイエハオラ ウハエカモスラ

 

王の帰還をたたえ、実質キンプラ(いや本当に。仁科カヅキはいたしヒロ様は戴冠した。信じてほしい)と噛み締めながら帰る道すがら、頭に蘇ったフレーズに、膝から崩れ落ちかけた。

そうだ、小さな手でパンフレットをめくり、何度も何度も歌詞を読み返した。私は彼らに歌を捧げた。毎日のように。あの美しい羽が、大好きだった。

 

空と海の間に あなたは生まれる

サワテキラナマカヒジャウ ワラクラナピリ

 

記憶に確かに刻まれた音楽が唐突に蘇り、あの頃の感情とともに、奔流のごとく流れてくる、その感覚を何と例えようか。

それらを思い出すことができたのは、キングオブモンスターズを見たからだ。ラドンもそうだそうだと言っている。

VSシリーズが原体験として根付いている人間は、キングオブモンスターズを見に行くといい。見たような見てないような?という人も。

もしかして私のように、いつか遠い昔に抱いた、懐かしい気持ちを、美しい思い出を、不意につかむ事ができるかもしれないから。

 

完全に改宗した狂信者の手記じゃない?これ。

 

親に呪われた子供

最近の話題が心から辛かったので少し吐き出ておきたくなった。くだらないモブのしみったれた昔話だ。

 

子供にとって親とは呪いだ。という世界観で私は生きてきた。

祝福や幸いや愛などと親が結び付いており、呪いなんかであるわけがないと言われたら、そうですかお幸せに、としか申し上げられない。

 

私はいわゆるイージーチャイルドで、私の両親はヒステリックな怒鳴り合いの喧嘩をし、時には物を投げる人だった。

人の親とはそういうものだと思っていたのだが、最近になってどうにもそうでもない親という存在があるらしいと知り、未だ半信半疑である。本当にそんな親いるんですか?

まぁいい。とにかくそんな家庭環境に育った私は、幼稚園の頃にははっきりとこう思っていた。

「私が生まれてこなければ父と母は喧嘩しなかった。私が悪い。私なんか生まれてこなければ良かった」

私とは生まれながらに悪い存在で、だから罰を受けている。罪を償わなければ罰は終わらない。だから私は、両親に媚を売った。

「パパもママも霊感があるからモブも不思議なものが見えるかもね〜」と言われれば、何もない空間に何かが見えてますよみたいな顔をして手を振った。

そうすると父も母も子供は凄いな不思議だなみたいな反応をして喜んでくれたので、私はそのまま成長し、中二病を拗らせてちょっと精神がバグったが、まぁ瑣末事だ。

「パパは文系だから(ママは理数系だから)モブは国語(数学)の才能があるはず」と言われれば、死ぬ気で勉強をした。点数が良かった理由が才能なのか、努力なのか、今はもうわからない。頭の良さはわりと遺伝で決まるのでは?と思っているから、そういう意味では才能だったかもしれない。

両親は従順で優秀な私を褒め、私は尻尾を振って愛を請うた。

彼らの意に沿わない異母兄姉に父が激昂して家の窓ガラスを叩き割ったりしたのを見てきたし、両親がそれぞれ互いの悪いところを散々私に愚痴ってくるのも笑顔で聞いていたので、彼らの憎しみを買わない為には四六時中尻尾を振って腹を見せる必要があると確信していた。

まして私は、生まれてきてはいけない子だったのだ。生存を許されるには、それくらいしなければならない。そう思っていた。

子供は悲しいほどに無知で無力だ。親の言葉を絶対だと信じてしまうし、親の望むあり方に従おうとしてしまう。それが子供の生存戦略だ。

そうして育った子供の心は、大人になったからって健やかになったりしない。努力で多少は変わるけども、私は未だに条件付きでない愛情がこの世にあることを信じていない。

愛とは対価だ。相手を喜ばせた結果に応じて支払われるものだ。無償の愛? 神様だって正しく信仰しなければ愛してくれないのに?

まぁいい。そんなことはどうでもいい。私は無事モブとして生きているから、なんでもいいのだ。

とにかく、つまり、そう。そのように育った私は、親という存在の大きさを知っている。それが呪いであることも知っている。

何が正しいとか、間違ってるとか、そんなことはどうでもよく、ただ子供にとって親とは絶対で、親に逆らっては生きていけないという確信が子供にはあるものなのだと知っている。

親があなたは神様と話せるのねといえば、私は話せもしない神様と話して守護霊だろうが前世だろうが見てみせただろうし、空から金色のキラキラしたものが降ってくるとほざくだろう。

学校の無益さを説き、我が親の正しさを行動で示して周囲に迷惑をかけることも、きっと厭わない。

親がいる限り、それは続く。親殺しに成功しない限り、無限にだ。

反抗期で済む話、と言われたなら、そうですかお幸せに、としか申し上げられない。

反抗期の存在を、私は信じていない。そんなもの、あるわけがない。子供は親の所有物で、親に生殺与奪の権があり、反抗とは死だ。自殺するか、従うか。その二択の中で生きている。常に両親を喜ばせ続けなければ恐ろしい目にあって殺されるのに、反抗なんてしている暇があるものか。

親に呪われた子供が、親殺しを成し遂げるには、もはや成人を待つしかない。

親戚などにまともな人格者がおり、助けてくれるなら話はまた違うかもしれないが、他人の助力を請わないのなら、成人するしかないのだ。

成人してようやく、親の所有物ではないと法的に保証される。

自力で家が借りられる(保証会社ありがとう。緊急連絡先が買える世の中万歳)仕事も親の承諾なしにできる。転出転入だって自分で出来る。衣食住を親に頼らず手に入れられるようになって、はじめて、親と相対する事が出来る。

絶縁を申し出るのか、殺し合うのか、喧嘩するのか、逃げるのか。それは個々人のやり方だ。だが、成人するまでは何もできない。親の承諾なしに何かしても、あっという間に契約は白紙だ。そういう世の中だ。

 

だから、年端も行かない青少年に、お前の親はおかしいお前の言ってることやってることは間違ってる引き返せ、なんて言って、どうなるんだろうと最近とみに思う。

あなた方が助けるのか? 親の代わりに衣食住を保証して、まともな環境で暮らせるようにして? 教育を一からやり直して、凝った心を何年とかけて一つ一つ丁寧にほぐして、場合によってはカウンセラーも探して、莫大な金と労力をかけて愛そうというのか。いつ殺しに来るかもわからないおかしな親から命を守ってくれるのか。出来ないだろう。やらないだろう。

やいのやいの騒いでも、当人を追い詰めるだけじゃないのか。私たちには何もできない。無力なんだから、黙っていればいい。無力でないというのなら、具体的な行動を起こせば済む話だ。

呪われた子供を更に呪って追い詰めて、一体かれらは、何がしたいんだろう。

カフェインという悪友

多くの人は、睡眠時間を削りたいという願いを持っていることと思う。

いや、労働しなくても毎日50万ほど非課税の日本円が振り込まれ続ければ話は別で、起きていられる限り好きなことして、好きなだけ眠りたいのだろうとは思うが、現実はそうはいかない。

労働や勉学や家事その他諸々で24時間はあっという間に削り取られ、後に残る自由時間を可能な限り最大化しようと思った時、真っ先に敵視されるのが睡眠時間だ、という話だ。

 

くどいな。

 

つまり我々はやりたい事ややらなければならない事のため、やむを得ず睡眠時間を犠牲にする。

翌日待ち構えているのは、最悪の目覚めと抗い難い眠気と体調不良だ。

そんな最低な平日を支えてくれる戦友。それがカフェインである。

 

少し昔の話をしよう。

インターネット匿名界隈には異様にブラックな働き方が目立つが、私もかつて、それに準じる働き方をしていた。

朝は一時間早く出て、夜は五時間遅く帰る。

それでも終電を気にしない程度の時間――つまり23時だとかそれくらいの時間だ――に退社できて、残業代はフルで出たのだから、マシな方だろう。

(マシな方ではあれど今後撲滅されるべき働き方と確信しているし、999のとある星よろしく機械が全てをやってくれる世界が来るまで私は戦う)

そんな忙しさの中でも、私にはめちゃくちゃ傾倒していたジャンルがあった。毎日創作活動をしても熱が発散されなかった。睡眠時間が恨めしく、3時か4時まで起きていた私は、ひどい寝不足に苛まれた。

ある日、慰み程度にと手を出した、一杯の缶コーヒーが始まりだった。

飲んだらすーっと頭が冴えたのだ。眠気が吹き飛んだ。お目々ぱっちりだ。疲れたサラリーマンが缶コーヒーを手にしている理由が分かった。

だがそれでは効かなくなる。昼はコーヒーチェーンに行くようになった。

最初は一番小さいサイズから。二月もすればラージでも物足りなさを感じるようになった。

その頃になると頭痛が目立ちはじめ、最初こそ市販の鎮痛剤を水で飲んでいたが、次第にコーヒーで飲むようになった。そのほうが効く気がしたのだ。

ついでに(これは思うに配合されているカフェインの効果であろうが)頭痛薬を飲むと何だか気分が高揚し仕事に前向きに向き合える気がして、私は段々頭痛でなくとも鎮痛剤を常用しはじめた。(薬は用法用量を守って使用しよう!)

そんなこんなで一番ひどい時の私は、一日に

紅茶のペットボトル1〜2本、缶コーヒー1〜2本、コーヒーチェーンのアイスコーヒー(ラージ)一杯、チルドカップのカフェラテ1〜2杯、エナドリ1本にくわえ、市販の鎮痛剤を【用量を守ってるぞみたいな顔してる数】飲んでいた。

そりゃ貧血ひどくて精密検査回されるわ。それだけですんでよかったよ。

最終的に私は、色々あってその職場を辞し、何箇所かを転々として、その頃よりは幾分人らしい生活を得た。

が、ふと気付いてしまったのだ。

あの日々以来、量こそ減りはすれど、カフェインを取らない日は無かったんじゃないか?と。

 

そう思い至ったきっかけは、とある漫画を読んだからだ。

それは依存症についての啓発漫画で、生々しくも面白く、優しい漫画だった。

これです。

https://www.jiji.com/ad/korosho/izonsho_manga_v01.html

最後に作者さんの体験談が番外編としてか書かれていたのだが、それでふと思い出した。

そういやカフェイン依存体験談でバズってた人いなかった?あれ結末まで読んでないな?って。

これです。

https://mimorimisa.com/実体験/20181020/763/

 

同じ人やん!!

 

そして思った。

「ふぅ〜ん。今は大してカフェイン取ってない(一日2杯くらいのコーヒー系飲料とお茶と用法用量を守った鎮痛剤)からまだまだ平気だけど、やっぱカフェイン錠剤ってヤバイんだな〜手ぇ出さんとこ。いやぁそれにしてもイライラして集中出来ないなぁ〜気分転換に缶コーヒー買ってくるかぁ〜、眠いなぁ〜……いや、ちがう、これはカフェインで目を覚ましてるだけであって…ほら、ねっ?この漫画に比べたら全然……(カシュッ)はぁ〜やっぱUCCのブラックやな……生き返る……いや……ちが……たしかにこの思考回路は依存症漫画のそれだが別になくても平気だし……嗜好品……たしかに休みの日昼になっても眠くてコーヒー買ってきたりもするけど……いや……毎朝コーヒーとチョコで強制的に目を覚ますのはルーチン……これは……ああっループ思考!!だめ!!!!一回試しにカフェイン抜いてみよ!!!!!」

試しにカフェイン断ちました。

死ぬほど眠い。へぇ〜カフェインの離脱症状ってやべーほどの眠気もあるんだぁ〜ふぅ〜ん(震え声)

一週間。離脱症状はそのへんがつらいとインターネット匿名達はいう。

実際、カフェインを断ってから一週間ほど、仕事中も頭がぼうっとしたりやたら早く眠くなったりした。私の元気は半分カフェインで出来ていたんだなと思い知った。

そして昨日。

私はカフェインに軽度に依存してるんだなぁ〜〜〜〜という理解を得た満足感とともに紅茶を解禁。頭がめちゃくちゃ冴える。今までより"効いてる"感じがある。

いやぁ、別に金銭的に破産してないし今は血液検査の結果も良好だし、これくらいはドーピングの範囲でしょ。

カフェイン!君は最高の悪友だ!これからもよろしくな!!今日はコーヒー飲むぞ!!!!ヒューーーー!!!!!!!

(本当に困ったり悩んでる人は然るべき機関に救い求めようね。健康保険とかの金が給金からさっぴかれてるんだから元取っていきましょう)

木の芽時と人は言う

歩けば汗ばむ気温! 満開の桜! 爽やかな春の気配! 湧いて出る害虫! 滅亡しろ!!!!!!

 

春は始まりの季節だ、というフレーズは、果たして人類史上で何回使われているんだろうか。

春は、いろんなものが息づき、始まり、活気づく季節だ。

なので、モブである私も、街の空気に同調してウッキウキの躁状態になる。

木の芽時は気が変になるとかなんとか散々に言われてきているけれど正にその通りで、寒さに縮こまらず歩くことが出来るだけで、人間は何故か気が大きくなるのだ。

つい大きな買い物をしてしまったり、桜や道端の野草に惹かれるまま寄り道をして迷子になったり、鼻歌交じりに街を歩いたり。

 

桜の季節には魔法がかかっていて、この時期だけは、町中でアルコール片手にダラダラ道を歩いていても「花見の季節が来たわいなあ」と微笑ましく許される。

夜闇に浮き上がる白い花弁の妖しさに、誰もが理性を崩されて、暖かな陽気も相俟って何かにつけて寛容になっているのだろう。知らんけど。

 

いい季節だ。楽しい季節。気分がいい。

 

でも、あの、はい。だからってですね。

PCの買い替えとどうしても欲しかった小物と諸々合わせて月の手取り弱使ったの、本当に反省しています。

木の芽時の買い物、ダメ、ゼッタイ。

自動化しよう。寝よう

Angelic Crestというネットゲームをやっていた。

あれは多分、ごく一般的なMMOというやつだと思う。

私はあまりお使いゲーが得意ではなくて、ネットゲーム全盛期に幾つか誘われては片っ端から飽きた実績を持っているので、正直メインストリームはわからない。

Angelic Crestは違ったのか?と言われると、あれもお使いゲーだった、ような気がする。

もちろんストーリーもあった。可愛い女の子のNPC達と交流も出来た。詳細は覚えていないが、可愛かった事は覚えている。

だから続けられたのか?と言われると、それも否だ。名前も覚えていない女のために続けられるわけがない。

私がこのゲームを続けられたのは、ひとえに「リモコン」と呼ばれる公式botがデフォルトで実装されていたからだ。

その「リモコン」は、ソシャゲ三大悪と私が勝手に呼んでいる「脳死周回」を完全自動化するツールだった。

「このエリアを自動徘徊してオート戦闘」「HPがこれだけ減ったら回復アイテムを使う」「回復アイテムが切れたら安全地帯にワープして待機」

これをリモコンで設定しておき、あとは放っておくだけで、所謂「自動狩り」が出来たのだ。公式のお墨付きで。

最高だった。外出中にリモコン起動させて放っておけば、レベルが上がってアイテムが増えてストーリーに専念できる。

なんでこれが主流になってないんだ?と疑問でならない程に、最高のシステムだった。

今はサービスが終わってしまっているのが残念なところだ。

 

ツーラーは滅ぼせと叫ばれる昨今だが、人は何故苦痛を求めるのだろう。

定形業務は機械に行わせよう!働き方改革!効率化!と、各方面からこれでもかと声が上がっている中、何故ソーシャルゲーム界隈は時代に逆行するのか。

くっそくだらない単純作業の繰り返し。手の込んだクッキークリッカー

クッキーを焼く時間を捻出するために削られるのは、シナリオを読む時間や世界観やキャラを愛でる時間。

いや、虚無でしょ。

単純作業を重ねさせ、可処分時間を奪って囲って、なんて、いつまでやる気なんだろうか

人はやがて、機械に単純作業の全てを請け負わせる事になるだろう。それは遠い未来ではない、と思う。

機械がこなせる程度の超単純作業を、ただひたすらに苦しみながらやり続ける意義を、人は持ち続けられるのだろうか。

ツールを使うことが当たり前の社会で、脳死周回が駆逐されることを、願ってやまない。

 

古戦場から逃げて寝てぇもん。