レッテルを貼るな、主語を小さくしろ
いやマジでこれ。
私は小さい頃からレッテルを貼られるのが苦手だった。
「男の子はこう」「女の子はこう」「こういうおうちの子はこう」「本を読む子はこう」「お勉強できる子はこう」etcetc...
私は私でしかないので、レッテルを貼られるのはたいへん困った。
うるせーーーーーー!知らねぇーーーーーー!!!!!!と今なら言えるが、子供は素直だ。
周りの大人を全て信じ、言うことを聞いては不整合に混乱してゲーゲー吐くハメになる。
とはいえそれは、子供にだけ起こる人権侵害だと思っていた。大人になれば、自立すれば、私は何にも侵されまいと。
ところがどっこい、世間はレッテルまみれだった。
クソデカ主語で振り回される巨大なレッテルの数々は、私の自意識をかすめて巻き取っていく。
社会人は、オタクは、毒親育ちは、育ちのいい子は、文系は、理系は、○○人は、男は、女は……。
そんな主語で語られてしまうと「いや私はその属性ではあるけどそうではないし……」という不整合がおこり、脳への強い負荷を実感する。
あなたはあなた、私は私。
あなたが出会った人間は「〜だからクソ」「〜だから最高」だったのではなく「(特定個人は私にとって)クソor最高」でしかない。
十人十色、千差万別。類型化することはもしかしたら出来るかも知れないが、どんなに同一の類型だとしても、そこに人が二人いればそれは違う存在だ。違う属性を持っているのだ。
まとめてレッテルを貼って楽をするのは勘弁してほしい、そう思うのである。
「クソデカ主語で語ってレッテル貼りするやつは思考停止しすぎ」
とも、限らないのだし。